忙中閑あり、閑中忙あり

あるサークルで若い仲間と話し合う機会があった。

「まもなく敬老の日だが、おじいさん、おばあさんに対して特別のプレゼントなど考えているの」と聞いたところ、祖父母と同居の3人の答えはつぎのようであった。

「うちの祖父はときどき声をかけるが、いつも自分の殻に閉じこもって無表情で反応がない。家族の一人としての実感が、だんだんうすれてゆく寂しさを埋める意味で、なにか喜びそうなものを贈る」

「祖母は82歳、まず元気。『お前たち(孫3人)がいるから年を忘れるよ』とファミコン、ゲームボーイなどに手をだす。つねに笑顔で 『ハイ』、『ありがとう』とが交互にでる。冗談が通じる。『敬老の日とは親不孝者が罪滅ぼしする日だネ。私はみんなに毎日敬老されていると考えているからなにもいらないよ。ありがとうネ』」と。

「祖母と死別した祖父は年を重ねて、頑固とダンマリに磨きがかかった感じ。つねにでるセリフは、『いまの若い者は』『オレの若いときは』に続いて、聞きあきた戦中、戦後の苦労話や祖母の味付けと違うという母への小言に、幼いときに抱いた親愛感がなくなり、無責任だが同居の他人の感じ。決定打は“敬老の日”の贈り物などムダ遣いするなの一言だった。これでプッツン」と。教えられること多々である。

自分にとって「敬老の日」はかつては縁遠いものであった。

活年研究所、地域老人クラブにかかわるようになった現在、「敬」は別として「老い」にまつわる関心度は高い。この時期マスコミは長寿者賛歌、老人の自立、医療、介護、年金問題等の特集、特番の編成でにぎやかであるが、テーマをはじめとして、毎年の焼き直しであり、歳時記の感が深い。

折角つくられた「敬老の日」を、まず家族、地域の人びととの出会い、心のふれ合いを大切にして、他人の喜びを自分の喜びとする生き方をして尊敬されるような活年になりなさいと激励される日、第二に、いままで生かされた自然や人間に感謝する日と考えれば、それなりの意義があるのではなかろうか。

ちなみにわが家の子ども、孫からのプレゼントは、「私の家にはお年寄りがいません」とのすばらしいメッセージだけでした。