育児から育自       

  今思うこと

私たちは人としてこの世に生まれてきました。選べなかったけれど、なんだかどこか自分と似たところがあり、愛すべき両親・祖父母の暮らしの中に姉や妹弟とともに人として育ってきました。大家族の中で独りぼっちでいることが心を落ち着けると思ったり、寂しかったり。私も自分で張りめぐらした囲いの中で自分の居場所を確保し、安心して暮らしてきたと思います。家族の声の聞こえる所、暮らしのにおいの届く所に、誰にも邪魔されない自分の城を持っていました。それは人間嫌いではなく、人と関わるのがこわかったわけでもなかったと思います。安全な所に身を置いて1人孤独を楽しむといったところでしょうか。

ところが近年ますます人との接触がおっくうで、傷付くことがとても恐ろしく、他人との間では、心地良く感ずることだけを受けとめて生きたいと願う人が増えているようです。1人が好きだった私にはこうした人々の気持ちがわかるような気はしますが、でもインターネットなど電子メディアによって生み出される「仮想現実」の中に生きる城をつくってしまうと、どんどんエスカレートして行って、仮想の生活と現実の生活とのギャップになお苦しむようになると思います。

人と人との接触から起きたトラブルは、人と接する中でいやされていくものだと私は思っています。人には思いがあるから厄介だという反面、この思いが人の心を限りなく温かく包み込み、傷をいやしてくれるのだと思っています。100人の子どもがいれば100人の思いがあります。この子たちが感ずるまま、思うまま、表現できたらなんと素晴らしいことでしょう。その中からルールを決め、約束ごとを確認し合っていったら、つめ込む知識でなく、納得した上での理解が出来ると思っています。出来るだけ多くの実体験をすることが、事に当たってその子の選択の幅を広げると思います。親は無意識に過去の延長線上に子どもの将来を考え、自分の子は問題なく現状のまま成長していくものと思いがちなものです。親子のきずなは相互作用によって出来ていくものであり、言葉を掛けたら、その反応を見て、対応していくことが大切だと思っています。

私たち親は、知らず知らず自分が育てられたように子どもを育てていると感ずることがしばしばです。親がとても厳しかったから「自分たちの子はのびのびと育てましょう」と言っていた夫婦の長男が、追い込まれて自分の服をハサミで切るようになり、お母さんは慌てました。何時の間にか、自分の親以上に長男の生活を無駄なく管理していたことに気付いたのです。親から受け継いだものを、子どもたちに伝えていく、一人の人間は一人で生まれ、育っていくものではないと心から思っています。

情報が多過ぎて自信を失くし、不安を抱きながら孤独な子育てをしている母親たちに肩の力を抜いて、子どもたち、そしてまわりの友人たちとともに育っていこう、地域ぐるみの子育てをしていこうとこれからも声を掛け続けていきたいと思っています。