育児から育自       


祖父はちょっとそそっかしいところがあったけれど、情にもろく純粋ないい顔した人でした。祖母は何時でもひっそり茶の間に座って居ました。中風で倒れ、半身不随の身であったが、愚痴や不満は言わない人でした。軍歌をうたっては、戦死した息子を思い出すと言って泣いていました。祖父は祖母をリヤカーに乗せ、どこへでも連れて歩いていたものです。

父は、向こう気が強いが、根は優しい気の小さい長男。田舎から嫁いできた母は、よく似た義弟を父と間違え、以来色々と辛いことが続いたらしい。そして、何時寝るのかと私たち姉妹が心配するくらいよく働く気丈な母も、42歳で右半身が不自由になり、「何故私だけがこんな病気になるのか」と泣いて泣いて泣き暮らしていたけれど、晩年は穏やかな、いつもニコニコしている観音様みたいな人と言われていました。笑顔がとても良い人でした。父は母を背負ってバス旅行に連れて歩いていました。

そして、私は、しがらみの強い田舎を嫌い、自分自身の願う暮らしをしたいと東京に出てきたのです。体の不自由な母が、私にとっては、一番の理解者でした。よけいなことは言わないが、いつも気にかけているという思いが伝わってきたものです。今の時代に、母が若者だったらどんな夢を実現しただろうかと思います。そんなバイタリティのある努力する人でした。でも、バリバリ働く気丈な母よりも、静かだが、存在感のある母の笑顔が私は好きです。「おまえは東京に出て来て良かったと思っているか」と聞かれた一言が辛い思いをしている時の私に、“もう一度やってみよう”という元気を与えてくれました。私は祖父祖母以前の人々とは逢ったことはないが、ずっとずっと大昔からどこか似ている大勢の人々のいろんなところを受け継いで、今、1つのいのちを生きている、改めてそんな思いがしています。

以前オウム真理教の若者たちのニュースを見ている時、「あの人たちに“頑張れ”って言ってくれる人がいなかったのかしらね」という娘の言葉を聞きながら、“そうだよ、私たち「頑張るんだよ」「元気だすんだよ」って励まし続けてくれている父や母や祖父・祖母、友人や沢山の人々の言葉を何時だって感じながら生きているんだな”って思いました。「母に似てきた」と言われる私も、今娘の幸せを願い、孫の泣き声に心痛める毎日です。