あらゆる面 において競争激化の現代社会に生きる私たちは、さまざまな重圧によるストレスのために心の安定を欠き、心を病むという状況にさらされていて、そういう病む心をいかに癒すかということが、大きな社会問題ともなっています。

このことに関して、今回は、『徒然草』第二一一段を読んでみましょう。この段では、冒頭に「万(よろづ)のことは頼むべからず」と断言し、この世の全ては頼みにならないという、たいへん衝撃的な見解を示します。ついで、このことを証するために、権力・財産・才能・徳行・君寵・従僕・他人の厚意・他人の約束などが、みな変ずるもので、頼りにならないことを具体的に述べ、人間世界のいかに当てにならないかを強調します。ここには、一見、人間不信ともみられる、絶望的な孤立無援の思想がみられます。

ところで、『徒然草』の作者、兼好法師の世界観は無常観に基づいていると考えられますが、兼好は、この無常観をもって人間を厳しく見つめています。本来、「無常」ということは、万物は変化するという思想ですが、このことは、当然、人間も例外ではありません。人間も無常なる存在である以上、人間は身心ともに変わる存在です。人間のいかなる決意・約束も絶対に不変であることはありません。全ては、因縁・因果 の程度に応じて変わるわけで、このことを無視せず、凝視するところからの一つの到達点として、「万のことは頼むべからず」という結論が出てくるわけで、人間は変わるという原理からの当然の帰結なのです。従って、この断言は、単なる人間不信というような感情的な人間把握ではなく、厳しいが、理性的な人間理解に基づくものなのです。

この段は、続いて、以下のように述べます。

身をも人をも頼まざれば、是なる時は喜び、非なる時は恨みず。左右(さう)広ければ障(さは)らず。前後遠ければ塞(ふさ)がらず。狭(せば)き時はひしげくだく。心を用ゐること少しきにして厳しき時は、物に逆(さか)ひ、争ひて破(やぶ)る。緩(ゆる)くして柔(やはら)かなる時は、一毛(いちまう)をも損せず。


人間そのものが変わる存在である以上、わが身も他人もともに頼りにすることができないわけで、ここから、是<好結果 >なる時はこれを素直に喜ぶが、非<予期に反した結果>なる時はこれを恨まない、という心の持ち方が提案されます。が、問題は、いかにして「非なる時は恨みず」の心になれるかです。これについて兼好法師は、心の在り方を「左右広」く、「前後遠」く、「緩くして柔か」な状態に保つこと、即ち、柔軟性に富む融通無礙(ゆうずうむげ)な心を保持することの必要性を説いています。しかし、こういう心の獲得は、簡単にはできません。そこで、このことを受けて、この段は、

人は天地の霊なり。天地は限るところなし。人の性(しゃう)なんぞ異(こと)ならん。寛大にして窮(きは)まらざる時は、喜怒(きど)これに障(さは)らずして、物のために煩(わづら)はず。

と述べて終結されます。「人は天地の霊なり」<人間は天地間のすぐれた霊妙なものである>というのは、本来、中国の『経書』にある言葉ですが、兼好法師は、これに賛同し、人間を無限の天地自然と一体のものと考え、ここから、人間の心の本質の寛大にして無窮なることを確認し、喜怒を超えた、心の安定を確立する道を導き出しているのです。ここに、移ろい易い心から生ずる不安感を超えた、安心立命の境地が確立されるわけです。このようにして、人為に依らず、天地自然の無窮に帰することから、何物にもとらわれない、自由にして融通 無礙な心の境地が獲得されることになり、この境地になれば、さまざまな苦悩をもたらすストレスは、自から解消してしまいます。ここにこそ、心の病を癒す最良の方法があるわけで、この方法の適用と活用とが、混迷の現代に強く求められているのではないでしょうか。

さあ、ここで、前掲の「人は天地の霊なり」以下の一節をくり返し読んでみましょう! 心が軽くなりませんか。軽くなるまで味読してみて下さい。