不思議な名前のうどん屋さん あべしげこ さん

大型美容院とコンビニエンスストア2店舗の経営者が、ひとりで切り盛りするうどん屋さんに。店を二度三度と訪れる客は、絶品の讃岐うどんを食べにくるだけではありません。
太平洋戦争のさなか、女ばかりの一家を支えた阿部茂子さん。今、茂子おばあちゃんと慕われる店主に、会いにくるのです。ボランティアとは何か? 阿部さんの人生を追いながら思い巡らせてみたいと思います。

1935年、神奈川県生まれ。
60歳半ばから、腹話術で施設慰問などボランティア活動を始める。
2年前に開店したうどん店は、地域やリピーター客の拠り所となっている。

Facebook「鶴の恩返し」 https://ja-jp.facebook.com/ongaesi

天空の讃岐うどんの店〈つるの恩返し〉は、鎌倉の山を見晴らす小高い丘のてっぺんに、ひっそりとありました。藍染めの暖簾を分けて出迎えてくれたのは、この店を営む阿部茂子さん。「天空の」というのはなぜ? 空に近いから? という疑問に、紅葉に染まる山並みをさしながら、こんな答えが返ってきました。

ー「あの樹々の向こうから、朝日がのぼるんです。近所のみなさん、早朝の犬のお散歩でこの場所へ来て、掌を合わせるんですよ。毎朝、ご来迎。だからここは『天空』なの」
阿部さんの1日は日の出前にスタート、料理の仕込みに入ります。手打ちの讃岐うどんは、生地から空気を取り除く足踏み作業が欠かせませんが、阿部さんは深夜に1000回、朝起きてさらに500回踏むそうです。これで5、6人分、大人数の予約が入れば、足踏み1500回が繰り返されることに。つるりと喉越しがよくコシのあるうどんは、口伝えやフェイスブック、ブログを通じてあっという間に評判になりました。
住まいと兼用のこのお店は1年半前にオープンしたばかり。実は10年前まで、阿部さんの本業は美容師でした。

ー「20代の頃から40年間ね。結婚して、離婚して、子供ふたり育てながら働いた。髪結いは7、8歳頃から、母の姉妹の美容院で修行してたんですよ。14歳から12年間、工場で働きながら美容学校にも通いました。40歳半ばでお店をもって、最後はエステやサロンを備えた大型店、それとコンビニ2店舗も息子夫婦にまかせて経営してた。それがトラブルに巻き込まれちゃって店仕舞い。収入ゼロ、4人の孫のためにも何とかしなくちゃって。娘夫婦も美容院を経営してるんで、出稼ぎに行ったんですよ。だけど、おばあさんに指名はこない(笑)。仕方ないんで家のほうで女中業、形ばかりのね。素晴らしいお給料に優雅な暮らし、ふつうなら文句ないんだろうけど、娘が嫁いだ先で、ん? これはおかしいぞと。義理の息子もよくしてくれて申し訳ない。でも、うどん屋を始めたいって、気持ちをがーっとワープロで書いた。お義母さんの情熱には負けましたって、お金から工事の手配まで全部してくれたんです」
もともと孫に食べさせるために打っていたうどん。たくさんできると、「食べて、食べて」とご近所さんに配って歩き、英会話や詩吟などお稽古仲間にも振る舞ってきた。そんな人々の要望から、この店は生まれたといいます。

ー「指輪から何から何まで売れるものは全部売って、カラダひとつでここへきた。娘夫婦の援助はもちろん、麺の出来具合や出汁の味、友人や隣人みんなが何度も味見してくれて、結局みなさんに助けられて実現したのね。だから、〈つるの恩返し〉なんです」

人形を遣いながら、口を動かさずに、まるで人形が話すかのように声を演じる腹話術。阿部さんが得意な寄席芸でボランティア活動を始めたのは65歳過ぎてからでした。幼稚園や保育園、老人ホームなどの施設を、2体の人形とともに長年慰問してきました。

ー「孫の送り迎えをしている幼稚園から、お願いできますかって、声をかけられたのが最初。お役にたてればって。でも幼稚園は怖い。面白くないと、子供がどこかへ行っちゃう。もう泡食って台詞を忘れちゃったりね。 老人ホームではペンシル風船で動物を作ったり歌も歌って、楽しいムードを演出するんだけど、反応がなかったり。認知症の方は多いです。老人ホームは寂しいですよ。私、美容師だから髪をカットしたり、お化粧をしてあげると、とても喜ばれる。表情がないような方が、突然若い娘のようにニコッとする。人の笑顔を見るのは、うれしいですよ」
義務や強制ではなく、一人ひとりが自分の思いを軸に、自発的に取り組むのがボランティア活動。阿部さんは、何をきっかけに、どんな思いから腹話術を始めたのでしょう。

ー「最初から人様のために、なんてことじゃないんです。60歳になった時、自分のために習いだした。ボケ防止にね(笑)。腹話術は自分の声と人形の声を使いわけて、台詞を暗記する必要もあるから、頭がきちっとしてなきゃならないでしょ。そのとき台詞を書くのにパソコンも習い始めたんですよ。その頃母が亡くなって、それがきっかけかもしれませんね。母とは60年、べったり一緒だった。母のために生きたんだから、私はもういいやって。大好きな美容院も閉めて、3ヵ月ぐらい泣いてたけれど、このまま一人でボーッとしたら最悪って思ったんです」
昭和10年(1935年)、神奈川県横須賀に生まれた阿部さんの小学校時代は、まさに戦時下(太平洋戦争)でした。軍への供出で食べる物も着る物も手に入れ難い時代、阿部さんはわずか7、8歳にして、一家の大黒柱として母親を支えていたといいます。

ー「父を戦争にとられ、私と幼い3人の妹を抱えて、母は心細かったでしょうね。英霊がきますって葉書が届いて、とうとう父の戦死が知らされたとき、母にいわれたんです。『長女のあんたはお父さんの代わり、だから男として頑張って』。それがずっと頭にある。いまでも思い出すと泣けちゃうんだけど。海軍の兵隊さんが港に帰ってくると、深夜の道路に軍靴の音が響くんですよ。キュッキュキュッキュッって。その音で母がバタッと起きて、じっと耳を澄ませている。靴音が家の前を通り過ぎて、遠ざかり消えてしまうと、は?っとため息をついて、泣いていた。子ども心に、母のために生きなくちゃって。大の男たちに混じって防空壕掘りもしたし、買出しにも行った。うす黒い粉でうどんやらスイトンを作って、腹ペコで栄養失調の妹たちに食べさせていた。悪い時代だったし、男手がなかったから、母とは普通の親子とは違ってた。母がよくいってました、『二人で一足(いっそく)だねえ』って」

ー「私には50年来の夢があるんですよ。高齢者が羽をのばして寛げる憩いのホーム、こころ遊べる場所。ジャグジーの大きなお風呂があって、飲んだり食べたり宿泊もできる。そんな入れものをつくりたい。名前ももう決めてあるんです。セントラルパーク(笑)。美容院をやっていると、家族の不幸がみえてくるんですよ。嫁姑問題、子供のこと、夫のこと。頭をやりながら、「娘がこうなの、ああなの」、「嫁が意地悪くて、なのに息子は…」、もう泣き泣き聞くから。うちに来たときくらい、幸せになってよって。そのうち入れものつくるからねっていったら、みんな予約したんです。あんまり時間たっちゃったから、みんな亡くなってしまって、私もあやしくなってきた。急がないといけない、ほんとに」
普通の商売なら、聞き流して終わる客の話。阿部さんの場合は放っておけない?

ー「他人の悩みが自分のことになっちゃうんですよ。娘とうまくいかないと聞けば、じゃあアパートを借りるなら、私が名義人になるからって判子を押す。うちの息子はニートで何十年も引きこもりって。じゃあ米軍基地で募集してるから、私も年齢制限なしで美容師採用ってのに履歴書もってくから、一緒に行こうよって。よくよく考えたら、私の悩みはどれかしら?ってわかんないくらい(笑)」
うどんの店なのに、店内の一隅にはパーマ用の椅子が一脚。これも、足が不自由で美容院に行かれないお客さまに、髪結いや着付けをしてあげるのだとか。

ー「ボランティアなんてご大層なことじゃない。困ってる人を見たら、〈私に何ができるかしら、何でも私にできることは…〉、反射的に思ってしまう。そういう性分は父からきてる。やさしくてムードメーカーで、人様に楽しんでいただく努力をしてましたね。結婚式や新築祝い、七五三のお祝いや不祝儀でも、必ず父が歌って踊って尺八吹いて。私が9歳で亡くなったけど、よく覚えています。そもそも母との出会いが、父らしい。山で鼻緒が切れて難儀しているおばあさんに、自分のハンカチを裂いて鼻緒をすげてあげたそう。そのおばあさんの娘が私の母というわけ。本格的な和食の修行をして、独身の頃から手作りのお惣菜屋さんを営んでいた。大きなお釜に昆布や煮豆を炊いて、魚の酢のものや羊羹流しもあったと思う。お客さんが朝、会社に行く前に弁当のおかずに買っていくんです。夜は長い編み上げのついた草鞋を編んで、お客さんにプレゼントしてましたね。店にいっぱい吊るしてあったなぁ…。父が亡きあとは、母の影響も大きいですよ。『世の中の人のためにならない生き方は、人間として生きたことにならない』って、死ぬまでいってましたから。父は言葉ではなかったけれど、姿でね、多分すごいことを私に教えていったんだろうと思います。男勝りの生き方をしてきたけれど、乳飲み子の世話もずいぶんしてきたんですよ。最初は妹たち。末の妹を背負って、2人手をひいて小学校に通ってた。息子と娘はもちろん、妹の子ども、そして孫たち。最近は近所に越してきた双子の坊や(笑)。子どもが好きなんですね。子どもたちが元気で生きてたら、それだけでうれしいじゃない、可愛いもん。父母からもらったものは、子と孫に手渡していきたいですね。人を想える気持ち、かな。孫たちとは通じあえてる、って自負してる」

暖簾が降ろされた店の玄関脇には袋がいくつも、なにやら置かれています。

ー「ちょっと出かけて夕方帰ってくると、お野菜が置いてあったり、何か入って器が返ってきてる(笑)。昔は、物のない時代は、お互いに融通し合って、お塩にお味噌、うちにはお米あるわとか、きんぴら煮たからとか、入れ物が年中いったり来たりしてた。今でも私、そんなことやってるもんだから」
近所付き合いが希薄になった今の社会ですが、阿部さんの「食べて、食べて」で、新たなご近所との交流が生まれているのでした。
マウントバイクで山越えするグループが、汗びっしょりで店に入ってくれば、「お風呂に入って、ひと寝入りしてく?」と声をかける。知り合いが一人もいない、子育て中の家族が引っ越してくれば、身内のように世話をやく。

ー「一度会ったら、みんな私の家族、ファミリーなんです」 
お節介で、厚かましくて、よけいなお世話と思われるかもしれない。そのことを阿部さんは承知している。でも、この世の中、阿部さんのような人がいないと、困るんです。
ボランティアという言葉を超えた、人を支える心が、天空のうどん屋さんにありました。

◆60 歳半ばから始めたボランティア活動。腹話術や安木節で人々を笑顔に








◆「子供がお世話になるお返しに」と、双子のお母さんがホームページを作成・管理








◆店は出逢いと集いの場








天空の讃岐うどんの店〈つるの恩返し〉